きむら歯科医院の歴史

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きむら歯科医院の歴史

クイズ : さあ、この写真の場所はどこで、この少年は誰でしょうか?

院長少年時代

正解 : 岡山市三浜町界隈です。後ろの方に写っているのが昔の医院の建物。
少年は4、5才頃の私( 院長 )木村秀仁 です。

昭和35年頃の三浜町は、草っぱらでした。
私も景色も、今からは想像もできないほど変わってしまいました。
祖父・祖母・父と歯科医でしたので、私は3代目です。
空襲でずいぶん焼けてしまったのが残念なのですが、昔の歯科関係のめずらしい資料・写真も少し残っています。
特筆すべきは祖母蔦野(つたの)です。彼女は岡山で最初の女性歯科医でした。蔦野(つたの)については、またお話したいと思っております。

きむら歯科医院3代の歴史は、岡山の大正から昭和にかけての歯科開業医の歴史でもあります。順にお話したいと思いますので興味をもって読んでいただけたら幸いです。

きむら歯科医院年譜
大正8年4月10日 (岡山市)西大寺町にて開業 
開設者 木村蔦野(現院長の祖母)
大正12年7月 (岡山市)内山下元町2丁目25
夫 木村貞隆(現院長の祖父)と共に開設
昭和10年5月 水害の為、(岡山市)相生町3丁目20-5
現在のルネスホール前に移転
昭和13年10月15日 (岡山市)福島下町にて分院開設
昭和20年6月29日 岡山大空襲の為 本院全焼福島分院にて診療を継続する
昭和21年12月 南海大地震で福島下町の分院が家屋傾斜した為移転
昭和22年2月4日 岡山市三浜町2丁目現在地に移転医院継続開設する
昭和32年 木村 央(現院長の父)2代目院長となる
昭和42年 診療所新築工事完了
平成3年9月 木村秀仁 3代目院長となる
初代院長 木村蔦野 思い出の記(その1)

8月の盆休みもせまり、そろそろ墓参りの季節である。
このHPの紙面を借りて先祖のことを書くのも供養かな、などと勝手に解釈し、祖父母に登場願うことにする。

初代院長 木村蔦野

私にとって祖母である蔦野を思い出そうとしても、実家の茶の間にかかる色褪せた祖父母の写真を通して、自分の幼少のころの記憶をたどるしかない。女性歯科医師として誇り高く精力的に仕事をしていた記憶は、私にはほとんど無い。私が小学生のころ祖母はすでに認知症がひどく、私には父母の手を焼く困った婆さん、としか映っていなかった。

私は父の跡を継ぐため岡山に帰り、日々の診療のなかで父や、叔父から初代院長である蔦野の昔話を聞くにつれ、岡山の歯科医療の分野で、また職業婦人としても草分け的存在であった彼女の偉大さが分かってきた。

特筆すべきは、蔦野が岡山で初の女性歯科医師であったことである。
上記の年譜を見ても分かるとおり、大正の初め、祖父の貞隆と結婚する以前に今の西大寺町に新規開業している。当時、世間の人々は、女だてらに歯科診療所を建てたというので大変珍しがり、近所のやじ馬が診療所を見に来たり、その噂を聞いた山陽新聞社が取材に来たと聞いている。歯科医籍番号も3573番だというのだから随分古いものだ。ちなみに私の歯科医籍番号は82573番である。

水害、空襲、地震と天災にあうたびに移転を重ね、現在のきむら歯科医院の住所に落ち着くまで、大正、昭和の戦前、戦後という激動の時代を夫と共に歯科医療に従事し、地域医療に貢献したことは、現在、きむら歯科医院を後継している私にとっても誇りである。

初代院長 木村蔦野 思い出の記(その2)

そもそも印刷業を営む家に生まれ育った蔦野が、どうして歯科医師をめざして上京したのかはよく分からない。

大正期といえば「大正デモクラシー」の言葉に代表されるように、女子高等教育が飛躍的に進歩した時期である。男女平等の教育をめざして全国に女子大学や専門学校が設置され、志高い女性に高等教育の機会が広がった時期である。東京 大阪の大都市部を中心に設立された教育機関は家政 文学 語学 医学 歯学 薬学と専門分野も多様化した。ちなみに東京女子専門歯科専門学校が設立された頃、時期を同じくして、聖心女子学院高等専門学校 東京女子大学 帝国女子医学専門学校 帝国女子薬学専門学校 共立職業学校専門部 日本女子体育専門学校などが設立されている。

昭和初期のチェア

岡山の田舎から十代の女子が一人単身上京して歯学の勉強をすることなど、本当に稀有なことだっただろう。岡山から東京まで蒸気機関車で何日もかかる時代である。きっと今の時代で言えば、訳の分からない海外に単身留学するようなものだろうと思う。よく蔦野の両親も許したものだ。蔦野は三人姉妹の次女で、姉と妹ともに病弱で若くして亡くなっている。そこで、両親は「木村に生まれた娘は長生きしないらしい。ならば、本人がやりたい事をさせてやろう」と。蔦野の母親も当時にしたら随分、考え方がリベラルだったものだ。

はたして念願かなって明治44年に第一岡山高等女学校から東京女子歯科専門学校に進学した蔦野は、寸暇を惜しんで勉学に励んだと、今は亡き父から私はよく聞かされていた。

下宿屋で、消灯時間が過ぎても押し入れの中で、ろうそくの灯火で本を読んでいたという逸話は本当だろうか?アメリカへの留学(当時、津田英学塾が斡旋したものだと親類の聞き伝えによる話)が決まり、いったん岡山にもどり両親に挨拶しに帰省したところ、親戚じゅうの大反対にあい、あえなく断念したという逸話は本当だろうか?「青雲の志し」とはこういう事をいうのだろうか?父の生存中にいろいろなエピソードを聞いておけば良かった。

むし歯予防デーのポスター 昭和初期
初代院長 木村蔦野 思い出の記(その3)
卒業証書 婦人歯科医会岡山県支部総会

歯科専門学校を卒業して郷里に戻り、大正8年に歯科医院を開業してから地域医療に励むことになるが、今の診療の形態とは全く違うので興味深い。

当時の診療の様子がうかがえる資料は、昭和20年の岡山大空襲で殆ど焼失してしまって残念だが、立位の診療台に立ち、和服姿でもって診療にあたっていた祖母の写真が数枚残っている。着物に割烹着をかけて診療にあたっていたところなどは時代を彷彿とさせて面白い。

父の時代あたりまでは、すべて入れ歯などの技工は自分でしていたが、祖母の時代はまさに原始的な方法で義歯の作製をしていたようだ。医院の庭に七輪を置き、大きな鍋に湯をぐらぐら煮立たせて型をとっていたそうだ。鉄製の器具がまだ残っており、今では扉の錘になってしまっている。庭に七輪というところが何とも時代を感じさせて面白い。

職業婦人の先駆者であった蔦野はうわさどおり、気丈な女性だったらしい。保険制度がなかった当時は、一般的に歯の治療を望む人も多くなかったのだろう。日々の患者数も今ほど多くはなかったらしい。診療の片手間だったかどうか分からないが、愛国婦人会の会長として活躍し、家を留守にすることも多かったと父から聞いている。また、理由ははっきりしないが、戦争中、診療所内で正義を通そうと憲兵と口論になり警察に連れて行かれ、家族が非常に心配したが無事に釈放(?)されて帰ってきたという武勇伝も(?)残っている。

昭和20年、岡山大空襲で診療所が焼失して家族が離散し、ようやく落ち合ったのは翌日の夕方、旭川河川敷だったそうだ。幸い福島に分院があったので現在の海岸通りに落ち着くことになる。が、これまた昭和21年の南海大地震で家屋が倒壊する。階段がはしご状になるほど家が傾いたそうだ。そこで現在の三浜町に移転することになる。その当時、医院の周りは建物といえる建物はなく葦野原だけだった。今では福田、当新田、浦安と広範囲で新興住宅地となっているが、当時、歯科医院は木村歯科医院だけだったので、付近の小学校、中学校の歯科検診を一任されていたそうだ。祖父も歯科医だったが、検診に行ったのはいつも祖母のほうだったらしい。ともかく積極的で社交的な女性だった。しかも、当時は交通手段も乏しかったので、どこまでも歩いて出向いたそうだ。和服姿に歯科検診の道具をおさめた風呂敷を小脇にかかえて、三浜町から浦安小学校まで5~6キロもある田畑のあぜ道を通っていったそうだ。雨の日、雪の日は大変だったろう。

体力、気力も充実していた頃の祖母を一番よく知っているはずの私の父と、その兄弟もすでに亡くなり、祖母に治療を受けた事があるという患者さんもすでに高齢になっている。皆元気なうちに色々な事を聞いておくべきだったと後悔している。もし、このホームページをご覧の方で当時の様子を少しでもご存じの方がいたら是非、掲示板にお知らせいただきたい。

このページ上で、身内のことを記載するのは少々恥ずかしい気もしたが、歯科医として大先輩にあたる祖母に対して敬意を表したかったのと、明治から昭和にかけて岡山にもこんな豪傑な女性がいたのだと興味をもって読んでいただけたら幸いである。

戦時中、富士の裾野にて歯科学生とともに
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